ここで考える容量分析の実験の精確さは 1/1000 です。 これを実現するには、まず標準物質あるいは標準溶液の濃度が 1/1000 まで保証されていなければいけません。 塩酸の濃度を決める中和滴定を念頭に、 このあたりの周辺を考えてみます。
容量分析に用いられる標準物質については、 JIS にも詳細な規定があり(JIS K8005「容量分析用標準物質」)、 たとえば中和滴定であれば、炭酸ナトリウム、 アミド硫酸(HSO3NH2。スルファミン酸とも)、フタル酸水素カリウムが規定されています。 また JIS 規格による市販品(たとえば JIS K8625「炭酸ナトリウム(試薬)」)が容易に入手できます (おおむね純度 99.5 %以上が保証される。 先のJIS K8005「容量分析用標準物質」については、 製品評価技術基盤機構の認定した標準物質生産者(富士フィルム、関東化学など)が扱っていて、 詳細な分析値がついてくる(お値段は数倍になる)。 なお現在、産総研計量標準総合センターは、 容量分析用標準物質の頒布は行っていない)。
昔の教科書などを見ると、 標準物質の精製に多くの努力が払われています。 けれども今日では下手に精製してかえって汚染する可能性の方が高く、 特に「容量分析用標準物質」とされたものでなくとも、 たいてい水分が問題なので、乾燥などの手続きを踏めば、 JIS 規格に準じた市販品を、 そのまま使用して問題ないようです。 酸塩基滴定でいうと、 学生実験であれば JIS で指定された標準物質、アミド硫酸やフタル酸水素カリなどでなくとも、 シュウ酸二水和物で十分でしょう (JIS 規格では純度が99.5~102.0 % になっています(JIS K8519)。 100 %を超えるのは結晶水が失われることを見込んでいるのでしょうが、 まず大きくはずれることはありません)。
たぶん実験室で一番問題になるのは、使用する水でしょう。 京都大学の場合でいうと、 水道水には 0.6 mmol/L 程度のマグネシウム、カルシウムが溶けています (そしてこの対イオンとして炭酸水素イオンが 1.2 mmol/L 程度あり、 これが中和滴定にとっては大問題)。 塩酸の中和滴定では、 滴定液は 0.1 mol/L のオーダーですから、 1/1000 の精確さを目指す上では大問題で、 1/100 ぐらい、数μmol/L までには落としたいところです。 マグネシウム塩、カルシウム塩の電気伝導度は 200~300 S cm2 mol-1 というところですから、1 mmol/L だとおおむね 200 μS/ cm (200 S cm2 mol-1 × 10-3 mol/(103 cm3) = 200 μS/ cm)、 これを 1 μS/ cm 程度にはする必要があります。 水道水をイオン交換樹脂に通じる純水製造装置におなじみの皆さんは、 通常 0.1~1 μS/ cm 程度でイオン交換水を作っておられると思いますが、 それでこの要請は満たしています。
さて作りたてのイオン交換水はよいのですが、 放置しておくと空気中の二酸化炭素が溶け込んできます。 空気中の二酸化炭素濃度を 400 ppm とすれば、 飽和した状態ではおよそ 15 μmol/L 程度になります。 これは 0.1 mol/L のオーダーの溶液で 1/1000 の精確さを目指す立場からいうと、 ギリギリ問題になるレベルで、神経質な人は気にするところです (JIS では当然のように、二酸化炭素を除くことにしてあります。 なおアルカリ性の溶液では、二酸化炭素の溶解度は数ケタ大きくなり、 影響は深刻です)。
フラスコ容量/mL | 許容誤差/mL | フラスコ容量/mL | 許容誤差/mL |
5 | ±0.025 | 100 | ±0.1 |
10 | ±0.025 | 200 | ±0.15 |
20 | ±0.04 | 250 | ±0.15 |
25 | ±0.04 | 300 | ±0.25 |
50 | ±0.06 | 500 | ±0.25 |
どんなに純粋な試薬や水を用意したところで、 体積が 1/1000 のオーダーまで精確に決められなければいけません。 標準溶液を調製するのに用いるメスフラスコ(全量フラスコ)の精確さについては、 昔から詳細に検討されてきました。 現在市販されている化学分析用のメスフラスコ(JIS R3505 「ガラス製体積計」では、全量フラスコのクラス A 相当)について、 JIS で規定されている許容誤差を表 1 に示します。 表から明らかに、 JIS の許容誤差内で 1/1000 を目指すのであれば、 メスフラスコの容量は 100 mL 以上必要になります。
標準溶液を 100 mL 作るのは、 学生に滴定を何回もやらせるためだと思っている人がいたりしますが、 それは誤解です。 溶液に余裕があるので、 滴定操作の練習に使うのは問題ありませんが、 より本質的には 1/1000 の精確さを実現するために、このスケールが必要なのです。 また精確さを追求するなら、 200 mL、250 mL のメスフラスコを使いたいところで、 実際、分析化学の専門家が担当していた時代の化学教室の学生実験では、 250 mL のメスフラスコが使用されていました (廃液量を減らすため、1991年に 100 mL に改訂しました)。
なお水の密度の温度変化なども考えないといけない要素ですが、 水の膨張率は 20 °C 付近で 2 × 10-4 °C-1 ぐらいなので、 室内での2~3 °C の変化であれば無視できます。 またガラスの膨張率はさらに小さく、10-6 °C-1 ぐらいなので、 ほとんど問題ありません。
JIS が誤差 1/1000 以下であることを保証しているとはいえ、
メスフラスコの容積の較正はしておくに越したことはありません。
あるいは自分でメスフラスコを較正して、
標線を付ければもっといいわけです。
実際、昔の学生実験では、
メスフラスコの較正が課題として組み込まれていたようですが、
実験課題全体の釣り合い、労力を考えてか、
いつごろからか課題から外されました。
なお 100 mL のメスフラスコの場合、標線の位置の内径は 12 mm 程度のものなので、
メニスカスを ±0.2 mm 程度までに合わせれば、
不確かさとしては 0.02 mL 程度(水半滴程度)を覚悟する事になります。
ちなみに学生諸君にメスフラスコの容量をチェックしてもらったのですが、
34 人の結果から大きく外れた8人の結果を除いた平均は 99.93 mL、
いささか小さめになりました(標準偏差は 0.11 mL。メディアンは 99.90 mL)。
このように小さめに出るのは、ガラスが数年といったタイムスパンで収縮するため
(いわゆる「ガラスが枯れる」現象。
ガラス温度計の場合には氷点が高めに出る「ゼロ点上昇」と呼ばれる現象)と考えられます
(現在使用しているメスフラスコの大部分は 1990年代前半のもの)。
けれどもデータのばらつきを考えると、標線にメニスカスを合わせる時、
初心の内は少し低めに合わせる傾向があることも、無視できない影響があると思われます
(こうした偏りは、ビュレットで目盛の差を読む操作では、読み取り誤差と同様打ち消されます)。
通常、化学天秤で 0.1 mg まではかれるので、 ことさらに秤量の誤差について問題にすることはないのですが、 秤量の誤差にも配慮が必要です。
最近の化学天秤のスペックを見ると、 「最小計量値 minimum weight」というのが記載されていると思います。 これは米国の薬局方 USP の総則(General Chapter)に規定されているもので(米国の薬局方は民間主導でちょっと日本と毛色がちがうようです)、 所定の精確さではかれる最小の重さのことです。 このUSP の規定では、精確さ(繰り返し性)として 0.10 % が想定されていて (繰り返し測定の標準偏差の2倍が 0.10 %に収まるように規定)、 ここで考えている容量分析の目標、1/1000 とマッチしています。 ですから 1/1000 の測定をするには、 この最小計量値以上の試料を必要とするわけです。 現在、化学教室の学生実験で使用している化学天秤の最小秤量値は 160 mg(つまり繰り返し測定の標準偏差が0.08 mg 相当)ということになっていて、 使用する標準物質はこれ以上の量が必要ということになりますが、 通常の学生実験で採用されているスケールだとたいてい大丈夫です。 実際、シュウ酸の 0.05 mol/L の標準溶液を 100 mL 作るには、 シュウ酸二水和物 0.63 g 必要なわけですが、十分この要請を満たしています (現行の当化学教室の学生実験の課題の中で、 一番必要な量が少ないは 0.01 mol/L のヨウ素酸カリウム KIO3 溶液の調製ですが、 必要量 0.2 g ぐらいで何とか大丈夫)。