2005.2.28.
2004年12月8日、網田富士嗣さんが亡くなりました。 享年55才(1949年11月22日生)でした。 網田さんは長崎県の出身。 佐世保市立西高校を卒業後、1969年に立命館大学理工学部の2部に入学。 立命館大学に通いながら、1970年当物理化学研究室の技官として入職されました。 以来35年間、高圧装置の工作・設計を中心に、技術職員として当研究室に席をおいて働いてこられました。 その業績に対してはすでに1995年、日本化学会の科学技術有功賞が授与されたところです。 ここにぼくなりの網田さんの思い出を記しておこうと思います。

網田さんのこと

吉村洋介

網田さんとは、ぼくが大学院に入って以来4半世紀、同じ研究室で、学生として、また同僚として付き合ってきました。まだ何か網田さんが亡くなったということが、どこか信じられないような気持ちがあります。

先日、物理化学旧館の地下の超高圧六面体装置を一人眺めながら、ぼくが研究室に入った当時、網田さんが厄介ものを扱うような、またどこか誇らしげな調子で、装置のことを説明してくれたことを思い出していました。 網田さんは京大に就職して、この六面体装置から歩き出したのでした。そういう網田さんの思い出を少し書き留めておこうと思います。

網田さんの駆け出し時代

網田さんは元は電気の畑だったとかで、半田ごてを握っての回路工作は後々まで楽しそうにやっていました。 けれども京大での仕事は機械相手の工作が主で、就職したての頃は学業もあっていろいろ苦労したようです。

超高圧装置の技官という形で入ったものの、六面体装置で試料を入れるのに使うパイロフィライト(蝋石)のサイコロ作り、圧力装置のシール、さらには旋盤の扱いなんぞ、研究室の院生の方がずっとよくできるので悶々としたこと。 当時化学教室の金工の技官だった今井さんにアドバイスを受けながら、ヤスリのかけ方などは無論のこと(今井さんは民間の工場で仕上げ工をしておられたことがあったようです)、刃物を研ぐ練習に何本もドリルを削ったこと。などなど、いろいろ聞かされたものでした。

一家の主として

九州の人は他所の人とちがうと言いますが、網田さんを見ていると「九州人」の何たるかが分かる気がしました。 家族のことをとても大事に思っているのに、それを表に出すのが面映い。そんな網田さんでした。

網田さんの家族の話というと、確かぼくが修士の学生の頃でした。 網田さんがえらくニコニコしているのです。 尋ねても、いつもは話し好きの網田さんがなかなか喋ってくれません。 そこをあれやこれやと擽(くすぐ)りをかけると、結婚するというのです。 その時のはにかんだ、またすぐにも綻(ほころ)びそうな顔。 そして結婚してからの昼休み、奥さんの手作りの弁当を食べている時の幸せそうな顔。 あの頃の網田さんの顔が、ふと思い出されます。

網田さんは大変な亭主関白だったと思います。 お子さんの教育方針などについても、(実際はどうだったか知りませんが)自分の気に入ったようにしないと認めないという風でした。 けれどもそれだけに、家族のことをとても心に掛けていました。

昨年の春、今度の病気で入院していた網田さんを京大病院に見舞いに行った時、「退院したら仕事のことは忘れて、もっと家族に甘えたらどうですか。奥さんと温泉旅行なんかもいいでしょう」などと話していると、「そんなことできるものか」という顔をしながら、ふっと涙ぐんでいる網田さんでした。 またあれは昨年の8月だったでしょうか、見舞いに行ったら奥さんが帰られた後だったようです。その時網田さんはつくづくとこんなことを言っていました。
「むしゃくしゃしてくると、つい家内に当たってしまうんだ。子供のことや親のことで大変なことは分かっているのに・・・。しまったと思っても後から謝るわけにもいかないし・・・」
そう言いながら、素直になれない自分にいらだっている網田さんでした。

職人として

網田さんに、あれこれしましょうと声をかけると、
「ぼくは職人ですから」
という言葉がよく返ってきました。 実験装置のことや超高圧装置・金工室のことなどでも、網田さんには出すぎたことをしないようにと、気配りが先に立つ所がありました。 ぼくはそうした網田さんをじれったく思ったものでした。 けれども網田さんのアイデアが失敗したらすべて網田さんの責任。 またうまく行ったらうまく行ったで、その成功は当然のように他の人の業績のネタになるだけ。 下手をするとそれをいいことに網田さんの仕事が増える。 そうしたことを実際に見聞きして、網田さんが「分」を守る態度を取るには理由があることが、ぼくにも分かるようになりました。

一般に大学の技術職員の仕事全体に言えることかもしれませんが、化学での機械工作の仕事は「外注するより安くついた」といった程度に受け取られ、あまりその技術自体が評価されない傾向があります。 口では「ありがとう」と言っているのだけれど、本当は分かっていないんじゃないかと思われるケースをぼくも何度か見かけました。 そうした空気の中では、やる気を失い「飼い殺し」状態になっても不思議でないかもしれません。

でもそこで立ち止まってしまわないのが、網田さんでした。 網田さんは自分の職分について高いプライドを持ち、高水準の目標を自分に課していました。 網田さんは材料力学や金属材料に関する知識を、ほとんど独学でものしました。 誰に指示されたわけでもなく率先してCADを導入した網田さんでした。 学会などにも進んで出かけ、洋書なども丹念に読んでいました。 低温脆性の話、スズの変形の際の音(スズ鳴り、tin cry)の話など、その薀蓄は何度も聞かせてもらいました。

網田さん苦心の作が埃をかぶってぞんざいに置かれているのを、寂しそうに見ている網田さんと話をしたことがあります。
「ぼくたちの仕事はこうしたものなんですよね」
縁の下の力持ちに徹しようとするその姿は凛々しいものでした。でも痛々しくもありました。 網田さんが亡くなる十日ほど前、見舞いに行った時「考えると腸(はらわた)が煮え返るようで余りに無念だ」などという話を聞きました。 網田さんの中にも、さまざまな思いが渦巻いていたのです。

これからの技官・技術職員のために

だいたい技官・技術職員という方々は互いにあまり付き合いがよくないものですが、その中でも網田さんは付き合いのいい方ではなかったように思います。 それだけに3年程前、技術専門官になり全体を指導するような立場になってから、いろいろ苦労しておられるように見受けました。

今後の技官・技術職員をどう育てていけばよいのか、技術の継承をいかに図っていくべきか、研修をどのように企画すればよいのかなど、網田さんと何度か議論したことがありました。 その中で「しっかり技術を磨き、次代に繋いで欲しい。その内、応分の評価もされるだろうから・・・」といったぼくたち教員サイドの虫のいい話は
「技官や技術職員は所詮便利使いされるだけ。 今の大学に技術職員を置いたところで、人間を腐らせるだけではないか。」
といった、網田さんの率直な疑問に霞みがちでした。 でも網田さんには、教員サイドの虫のいい話を積極的に受け止めてくれる度量と、何より技術開発への情熱がありました。 その度量と情熱を、正しく受け止められる大学にしていかなければと思っています。

おしまいに

網田さんは誇り高く傷つきやすい人でした。
そして他者への思いやり、進取的な精神に富んだ人でした。
あまりに早すぎる死でした。


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