われわれがふつうに見る液体は、ふつうに振る舞っています。 ではその「ふつう」というのは、なぜ普通なのでしょう? 一歩踏み込んで考えてみると、意外に単純ではない内実が潜んでいることがわかります。
よく水は地上に豊かに存在するものでありながら、異常な性質を示す液体と言われます。 たとえば温度を下げていくと4 ℃で密度が最大となります。 あるいは水の定圧比熱は温度を上げると小さくなり、35 ℃ぐらいで最小値を示します。 こうした挙動を「異常」だと呼ぶのですが、では水以外の「ふつう」の液体は、なぜ極大・極小を示さないのでしょう? 実はこうした問いかけへの答えを、われわれはほとんど持っていないのです。
たとえば温度を上げると膨張するという性質を取ってみても、 分子論的な説明はそう単純ではありません。 仮に分子同士がフックの法則に従う、単純なばねで結ばれている状態を想像してください。 フックの法則によれば、力の大きさが同じなら、ばねを伸ばす時も縮める時も、 同じ長さだけばねは伸び縮みします。 温度を上げて分子運動が激しくなった時、 ばねは伸びる方向にも縮む方向にも同じように運動するはずです。 平均を取ればばねの長さは変わらない、熱膨張は起きないのです。 こうした立場からは、普通の液体が熱膨張を起こすのは、 分子同士をつなぎとめている相互作用が、 単純なばねで記述できないため。 フックの法則に従うのが「ふつう」であるなら、 液体中の分子間相互作用が「異常」なので、 熱膨張が起きるわけです。 多くの液体は(正の)熱膨張を示し、それが「ふつう」なのですが、 それが分子論的に見て「ふつう」かどうかについては批判的な検討が必要なのです。
図0-1. ヘプタンの粘度の温度依存性。
圧力一定で温度を上げると粘度は急速に低下していくが、
体積(密度)一定で温度を上げても粘度はほとんど変化しない。
今回の話では登場しない話題ですが、粘度や熱伝導度といった輸送物性には、こうした問題がたくさん存在します。 たとえば図0-1 に示すのはヘプタン(ガソリンの成分)の粘度の温度依存性です。 たいていの液体は圧力一定で温度を上げると粘度は低くなる。サラサラになります。 このことを
「温度を上げると分子運動が激しくなるので液体は流れやすくなる」
といって説明する人たちがいます。 いかにももっともらしく聞こえるかもしれません。 しかし体積一定の条件では、ヘプタンの粘度はほとんど温度変化を示しません。 こうした目から見れば、温度を上げて粘度が低くなるのは、液体が膨張するからなのです。 実は分子論的には
「分子運動が激しくなると、液体の流れが乱されて流れにくくなる」
というシナリオの方がもっと説明しやすいのです。 このことは気体ではよく知られた現象ですし (気体の粘度は、等圧条件でも等積条件でも、温度を上げると増加します。 また一定温度の下では圧力に依存しません)、 金属の電気伝導度が温度を上げると小さくなることとも符合します。 実際、少し考えてもらえば、分子の運動の激しさは、 液体の流れの激しさ、流れやすさそのものではありませんよね。
この液体の粘度についての省察はいろんな意味で、示唆に富んでいます。 しばしば液体の粘度が温度を上げると小さくなるのは「ふつう」であるとされ、 ふだんは異常扱いされる水も「ふつう」扱いされます (イオウは「異常」)。 けれども分子論的に眺め、
「(体積一定では)温度が上がると粘度も増加する」
という立場に立てば、事態は違ってきます。 水の粘度は体積一定の条件でも、温度を上げると小さくなります。 この意味では水は、十分「異常」に振る舞ってくれているのです。 ふだん見知った、圧力一定の条件下での挙動をもとに作られる「ふつう」のものさしでは、 分子論的に見た「異常」を捉えきれないのかもしれないのです。
図0-2. 16族の水素化物の標準沸点。
水の沸点は同族のものより高いが、
このことは直ちに相互作用が強いことを意味しない。
もう一つ、以前ぼくが院生時代に、それこそ頭を殴られるようなショックを受けた例を出しましょう。 水の異常性を示す標準沸点の図0-2 を見たことのある人は多いでしょう。 予備校の講師を頼まれ、この図を示しながら、 「水は水素結合するので、同族の水素化合物の中でも沸点が高いのだ」 と得々と説明するぼくに、どうも得心のいかない顔をする生徒がいました。 なぜこんなこともわからないんだと腹を立てたんですが、下宿に帰ってからよくよく考えると、 むしろこれで分かる方がどうかしています。 水は水素結合しているから、蒸発するのにより多くのエネルギーが必要なことはよいでしょう。 しかしそれはただちに沸点が高いことを意味しません。 熱力学的に言えば、蒸発のエンタルピー変化 ΔH は、沸点 Tb と次の関係式で結ばれます:
ΔH = Tb ΔS
蒸発のエントロピー変化 ΔS が物質によって変化しないなら、 蒸発するのに必要なエネルギーが大きいことは、 沸点の高いことに他なりません。 しかし蒸発のエントロピー変化は、物質によって変化しないのでしょうか? このことは古くから知られたトルートン Trouton の通則の主張するところではあるのですが、 ではなぜトルートンの通則が成立するのでしょうか? 実は明確な分子論的な根拠は存在しないのです。*1 一見自明のように見えることの背景には、ぼくたちの勝手な「多数決の論理」が入り込んでいることを正しく見る必要があります。
今回のお話では、液体の平衡状態の性質に的を絞り、 普通の液体がなぜ普通なのかを考える上で、 もっとも基礎的なところを取り上げることにします。