2001.4.5.
「物理化学の進歩」1巻(1926)より

堀場先生による「物理化学の進歩」の刊行の辞です。 今日いよいよ困難になってきている、こうした事業に立ち向かおうとする、その志には敬服します。 読みやすくするために新字新かなにし、一部漢字をかなに改めました。


「物理化学の進歩」刊行に就て

科学の進歩は日―日として休止する時はない。特に近時に於ける 物理学及び化学の進歩は実に目覚しいものであって科学進歩の歴史 上後世から見ても現代は必ずや―つの光輝ある時代として残るだろ うと思われる。私どもこの時代において科学の―部門の研究に身を委ね ている者は自分の研究が世界学術進歩の潮流に対して何様の関係が あるかを絶えず注意して、互に研究上の努力が無意義の事に費されぬ 様に努め而して吾人の仕事が出来得るだけ学術の進歩に貢献する様 にせねばならぬ。然しながら現代の如き学術の進歩の急激なる時に 於ては最新の進歩の状態を理解する事すら可なり困難の事である。

今之を私共の問題としている物理化学に就て見るに物理化学の純理 方面に於ては物理学、化学の両方面に亘り其の進歩を絶えず注意する 必要があり、その応用方面においては工学、医学、農学その他各学科に亘り 注目を要するものであつてその範囲が極めて広い。ために物理化学 最近の進歩を知つて行く事のみでも大なる努力を要するものである。 たとえ自身の研究している方面に関しては世界の誰れにも劣らぬ自 信を有する人であつても物理化学各方面に亘って日々進歩して行く 世界の形勢を見る事は可なり難かしい事である。そのためには適当 なる紹介者によつて最新の知識を得る事が最も便利の方法であらね ばならぬ。内外の各専門雑誌に附属せる論文抄録の一部の目的は最 新の研究をなるべく早く紹介するにあるが普通の抄録では何の雑誌 に此の様の研究が表はれたかを大体知る程度であつて、その内容を解 する事は―般に困難である。英の Chemical Society のAn{n}ual Reports、独 の Ahrens の Sammu[l]ung, 又雑誌 Naturwissenscaften の特別号及ぴ Ergebnisse der exakten Naturwissenschaften 等は上述の目的に適合した もので極めて重宝のものである。しかし物理化学のみについて発行せら れているものは未だ何れの国にもない。またかくの如き紹介は特に邦文 にて記されたるものを吾人は要求し若しかゝるものが出来ればいか に研究上便宜を得るかと吾人は考えておつた。たゞこの如き雑誌また は書籍の編纂は日本における多数の専門家の協力により各自専門の 部分を分担して始めて完全なるものが出来ると思う。しかしかゝる事 業には幾多の困難がともない急に実行の運びに至る事はむつかしい。こ こにおいて吾人はやゝ無謀の誹があるかも知れぬが現在の京都帝国大 学の物理化学研究室の各員が協力執筆して「物理化学の進歩」なる定期 の刊行物を出版する事とした。

完全なる事を望んで永く不実行のままで放って置くよりも不完全で あっても実行の可能性ある事を試み漸次進歩せしめて行きたいのが 吾人の希望である。現在にあっては吾が肝究室の人員も少なく研究 している方面もある限られたる方面のみであるがために各自執筆す るものもある部分に偏して物理化学全般に亘つて其の進歩を紹介す る目的には不充分であるかも知れぬ。たゞ吾が国において日々物理化 学に興味を有する人が増加しつゝある今日幾分にてもそれ等の人々 の研究に便宜を与え得たならばこれまた吾人が学界に貢献する―つの 途であると考えて敢えてこの計画を進めた。幸い第―輯は吾人の乏 しい資力を以つてし、至文堂主佐藤正叟氏の好意の出版によつて漸く こゝに上梓する事を得た。現在にあつては第二輯を来年二月にその 後年三回引きつゞいて出版の計画をしている。世の識者にして本事 業に興味を有する人は何らかの方法において本出版の発展に援助あら ん事を希望する次第である。

この機会において至文堂主佐藤正叟氏の好意を謝し且つ吾人同志の ―人なる理学士市川禎治氏が編纂に就ての努力を深く感謝する。

大正十五年七月
京都帝国大学物理化学研究室において

教授 堀場 信吉


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