2003.5.11.

日本物理化学研究会創立総会(1937年3月3日)速記録から

読みやすくするため、新字新かなにし、句点を入れたり、一部漢字をかな(「洵に」→「まことに」など)にしたりしてあります。

日本物理化学研究会創立総会での演説 櫻井顧問

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私は今英国に参りまするその旅行の途上に、この席において何かお話申上げるということはちょっと私の心理状態と縁が遠くなっているのであります。したがってお話申上げるいゝ材料をもっておりませんが、堀場君から何かお話するようにというお話がありましたので、極めて簡単なお話でよろしいということでありますから、それだけの責を塞ぐために演壇に上った次第であります。

私は普段からこういうことを考えております。 何事でも一人の中心の人があって、そのまわりに熱心な人が集って来るならば、必ずそのことは成就すると思うのであります。 それは百年以前にドイツという国はヨーロッパのむしろ北の方に位しておりまして、気候も土地もよろしくない。農業には適しない、まことに貧弱な国であったのであります。 しかるに、学術を盛んにして学術を基礎として国家が繁栄を図らなければならぬ、という所に基づきまして、そうして化学方面におきましてはリーピッヒという偉い学者があってそのリーピッヒという先生の周囲に各方面から熱心な学徒が集ったのであります。 独りドイツばかりではない。ヨーロッパ各国やまたアメリカからもリーピッヒの下へ馳せ、そうして化学の研究をやったのであります。 その後ドイツに偉い学者がたくさん出たことは申すまでもないことであります。 これは全くリーピッヒが中心になり、リーピッヒの下にほとんど皆の者が集っておったためだといつてもいゝのであります。 それから後には色々の偉い人が出まして、とにかくどういう方面におきましても一人の中心人物があって、その周囲に熱心なる人が集って始めて、化学でも何でも進歩するものであるということを常々考えておるのであります。


我国も物理化学に関しましては、先ほど松井総長のお話の中で、総長のお言葉でありますけれども、私に関する事は全然否認をいたします。 私も大学におりました時分には、少くともその初期におきましては、物理化学というものがなかったと言ってもよいのであります。 本当の物理化学というものはなし、むしろ池田、大幸、片山という方々によって、東京帝大におきまして物理化学というものが始められた。今日の堀場さんは、その人から指導を受けられたその関係もありますが、今日の堀場君は御自身の御努力によるということが言えるのであります。 私自身は物理化学の開発ということについては何ら貢献しえなかったのでありますから、そのことにつきましては昨日大阪におきまして、懺悔話をいたしましたのであります。 自分は大学にありながら、何等物理化学の方面に貢献することができなかった、この罪をどうするかということを懺悔をした位でございまして、ただ今、松井総長のお言葉は自分が非常に物理化学に貢献したというような言い方でありましたけれども、私は否認するのであります。

そこで元へ戻りまして、堀場博士のやり方を遠くから見ておりまするというと、やはりこの堀場博士が中心になってその周囲に若い人々が集って、その指導を受けて、京都における物理化学の研究をして、全国に見ない特異性をもたしめている。 かかる中心人物をもつこの日本物理化学研究会の将来の発達は期して待つべきであるのであります。 そうしてこれに対して藤井さんが多大の御援助を与えて下さった。 吾々は物理化学に多少縁故のある者として、まことに感謝に耐えないのであります。 何と申上げて感謝の意を表していゝか、その言葉を知らないのであります。 これは独り藤井さんが化学工業に関係せられておったから、資金を御提供になったということではないと私は確く信ずるのでありまして、堀場教授の真摯なる研究熱と、また物理化学における非常な貢献をされた結果だと思うのであります。 とにかくここに堀場君という中心、そうして藤井さんというその援助をする方、これで以て私はもう年々此の会は成長するものであると思います。

私はまことに準備をしなかったのでありまして、ただ一言何か話せということでありましたから、この会のできたことに対してお喜びを申上げ、そうして藤井さんに対してお礼の言葉を申し述べるだけのことであります。 これで私のお話を終ります。(拍手)


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