本日、日本物理化学研究会の第一回の総会を開きますに当りまして、吾々の尊敬する所の櫻井、藤井両先生の御来臨を得ましたことは、本会といたしましてまことに光栄の至りでありますし、私どもとしてこの上もない喜びと存じております。
ただ今堀場常務理事から申されましたように、本会の創立になりました本は学問を振興したいといふ藤井さんの非常に義侠的な心からなる多額の資金を頂戴したということに基くのでありまして、いかにしてその金を使用して日本の物理化学の振興をせしむるかということについては、色々櫻井先生の御意見を承りまして本会が創立されることになったのであります。
ことに私ども非常に涙が出る程喜ばしいと思いますることは、櫻井先生は我が日本における物理化学の第一人者にお立ちになった方であります。先生によって日本の物理化学というものは創められ、先生によって教えられ、先生によって開かれたのであります。 今日、日本の物理化学界の非常に繁昌するやうになった本は櫻井先生から出ておるのであります。その先生を本会の最初のこの総会においてお迎えするということは本会といたしましては、私ども涙が出る程嬉しい次第であります。非常に良い機会を恵まれたように思いまして、本会の前途に多幸あるような感じをもちまして、まことに喜びにたえない次第であります。
先生は今ヨーロッパへお越しになりまする途中の極めてお忙しい時であるにもかかわらず、今回特に京都にお寄りになりまして、御出席下さいましたことは本会の前途の洋々として進む前徴であるような喜びを感ずるのであります。櫻井先生が初めて東京大学で物理化学をお講じになりましてより、以来今日に至るまで半世紀以上の月日が経っております。その間におきまして物理化学と申しませず総て日本における学界の進歩というものは、これは実に驚くべきものがあります。50年前と今日では、ほとんど隔世の感があるように思うのであります。
しかしながら一歩深く退いて考えてみまするというと、却々吾々はこれを以て満足すべきやうな状態ではないのであります。吾々の周囲に行われている所の総ての工業等につきましてもその工業は盛んであってもその工業を起こした本は何処にあるか。日本の創意によってできた所の工業が一つでもあるか、是は絶無といってもいゝのであります。 いかなる部門の仕事であってもその本は皆それは欧米において起ったものを唯日本において改良したに過ぎないのであります。 学術上の色々の理論、色々の正しい学説、果して天下を支配するような学術なり議論なりが日本でできえたか、ほとんど無いといってもいゝと私は思うのであります。 ただ現在の工業の隆盛であるという外見に欺かれて、日本の学術は非常に進んだというように思ったならば、これは非常な大きな誤りであります。私は予(か)ねて日本人というものには独創の才はないものだ、ただ真似する天才のある国民であると信じておるのであります。 日本人というものには深淵なる学術なり技術なりを編み出す所の、現在の世界と違った所の世界におけるものを見る眼をもたない人間である。 ただ人のやったことを真似する、それに多少の改良を加えるということは、世界に類を見ない天才をもっている国民なりと信じている。 之を学問を離れまして例えばスポーツにおいても日本程世界のあらゆるスポーツを真似する国民はありませぬ。ほとんどど世界各国のスポーツをやっている。それも、日本固有の剣道とか柔道とかいうものもそのまゝあって、しかももアメリカのスポーツ、イギリスのスポーツ、水泳でも山登りでもみんな、ありとあらゆるスポーツをやっている。 そういう国民は世界こないと私は信じている。 いかに日本人が真似することに対して熱心であるかということが、このスポーツの現状をもってもわかる。 欧米において、ある学説が出てくる。それが日本には直ちに伝わって来る。 模倣するという言葉には一種の語弊があって何等の値打ちがないように思いますが決してそうではありません。乱した所の糸のたまにその糸口を見つけるというのは一つの事業であると同時に、その見つけられた糸口を巧くほどいて乱れた所をきれいに解き去るということも大きな仕事であります。 乱れた糸の糸口を見つけるという精神は日本人にはやはり欠乏しております。吾々日本人は今現在眼に見えるものよりしか見る眼をもたない、しかし一旦だれかがその糸口を見つけてくれさえすればその糸口をほどいて行くということに非常に天才がある、というのが吾々日本人の学問に対する関係のように私は信じております。 今日、日本の学術は非常に振興され日本の工業が非常に盛んになっても、私はなおこの意見を捨てようとは思いません。この日本人の長所と欠点をあわせ認識するということは吾々に最も重要なことでないかと思います。
今日のように国際関係というものが非常に緊張いたしまして、国家国民ということばかりを人が思うようになりました時に、吾々はいかにして我が国防を充実し我が日本独特の工業を盛んにするかということは他の時代よりは最も必要な時機であります。 そういう時機において、吾々の欠乏している所の新らしい真理を発見するという方に力を注ぐと同時に、他の点において発見された工業なり学説なりを日本で以て模倣すると同時にそれを改良しそれを進歩して行くということが非常な重要な仕事となって吾々の頭の上にかぶさってくるのであります。
今日は各種の工業の中でも、ことに化学工業というものが非常に隆盛になりまして、現にそれを反映する一つの現象といたしまして、京都帝国大学のやはり化学に関する学科には志望者が群れて来るのであります。 定員の二倍三倍というような状態になってくるのであります。 これは京都帝国大学のみでなくして、外の大学においても残らずこの現象を示しております。これは何を物語っているか、これは今日の化学工業界が非常に降盛な状態に向かっているということを示しているものであります。 この化学工菓というものはやはりその化学工業を起すに至った本の起源があり原理がなくてはならぬのであります。
今、堀場教授が申されましたように物理化学というものは、化学反応の理論を闡(せん)明するがために努力する学問であります。すべて化学工業というものはやはり一つの化学反応を応用した一つの工業でありますから物理化学というものが主となって働くでなかったならば、その工業の進歩発達ということが計られません。 ここにおいてか日本の化学工業が盛んになればなるほど、物理化学というものの研究という事は一日も忽(ゆるがせ)にすべからざるものとして、吾々は全力を尽してこの物珊化学の研究に邁進しなければならぬというのが現在の日本の情況ではないかと思います。 そういうことを考えまする時に、この日本物理化学研究会の誕生ということが、すこぶる意義あるものと考えられますると同時に、この研究会の創立のために多額の資金を頂戴しました所の藤井麒問に、またこの会の生れるに対して非常な援助を下さいました櫻井博士に対して吾らは感謝の熱意をいかに表しても足らないと思います。
願わくば、我が国において物理化学に関係しておられる方々の有力なる御援助をいただきまして、本会が日一日と隆盛に向いまして、日本の物理化学の進歩はもちろんのこと、それより来る所の総ての化学工業なりその他の進歩発達ということをうながして、日本が欠乏している所の独創的の天才、模倣するということに没頭せずに長所を採り入れ欠点を補い、その長所を助長するようにしてそのために本会が少しでも貢献することができれば、本会の設立ということが非常に意義を発揮することと思うのであります。
何を申しましても生れたばかりの赤ん坊であります。 これから先成長するかせぬかは、この学問に従事される方の努力輔翼の如何によることと思いまするから、どうぞ全幅の力を本会の成長のためにお注ぎ下さらんことを一言お願いしまして、私のお話を終ることにいたします(拍手)