日本物理化学研究会の設立を昨秋計画いたしまして、本日ここに多数来賓各位をお迎えいたし、各方面の篤志家のまことに大きい御援助の下に、また我が国全体広く物理化学者の御協力の下にここに創立総会を開くようになりましたことは、私共のまことに喜びとする次第であります。ここに創立の経過の報告を私がさして戴くことは大変な光栄のいたりに存じます。本日御来臨下されました方々の中には、物理化学の専門には関係が遠い方もございますので、甚だ失礼でございますが、最初に一言物理化学というものがどういうものであるかということについてお話をさしていただきたいと思うのであります。
物理化学は比較的化学の中で新らしく開かれました部門でございまして、化学反応の原理を研究するという学問だと簡単に申したらよいかと思います。化学の他の部門同様、化学の深淵なる理論を探究するものでありまするけれども、物理化学は特別に化学工業実際問題に密接なる関係があると私は考えるのであります。これは欧米各国における実例に徴しましても、またごく最近の我が国の化学工業における物理化学の長足の地歩を見ましても、それが立証されていると考えるのでございます。
さて我が国の化学工業の状態を見ますと、駸々乎としてその進歩が極まる所がないような状態であるということは、まことにご同慶の次第でございます。欧米各国先進国の塁を摩し、どういう風な化学工業にいたしましても世界第一流あるいは第二流の処、第三流とは下らない所まで行っているのでありまして、私共、化学を専門にやっております者すら、その実績を聞いて驚くといったような状態になっているということは、国力の充実の結果であり、国威の発揚、実に喜ばしいことであります。大正13年の頃でございました、彼の有名な空中窒素固定の仕事を初められましたドイツのハーバー博士が日本の化学工業を御視察にお越しになった時に、私京阪地方の工場を御案内申上げましたのでありますが、その時ハーバー博士が私に申されましたのには、日本はまだ基礎化学工業が確立していないではないか、例えばアルカリ工業の如きまだ確立していないではないか、それが染料とか何とか難しい工業をやっているということは、あたかもも盆栽をいじくって植木の栽培を知らぬと同じことだと批評されて、私共何とも申されなかったのでありますが、数年を出でずしてアルカリ工業も確立し、最近に聞きましたことでありますが、日本のアルカリが単に東洋市場に出るばかりでなく、ヨーロッパまでどんどん出て行くということはまことに心強いことであります。ハーバー博士は数年前物故されましたが、もしも現在の日本の化学工業を御覧なさいましたならば如何に此の進歩の激しいかということについて驚かれることと思います。しかしあるいはハーバー博士は「現在の日本の化学工業はなるほど立派に進歩している。しかし是はドイツあるいはアメリカ、英国あたりの真似をしているに過ぎないではないか」と云う風に批評されるかも知れません。もしそういうようなことを申されたら、またやはり返答に困るというのが実際の状態でないかと、思います。この事は吾々化学の研究をしております者がまことにその力が及ばないことによるのでありまして、恥しい極みであると思います。
とにかく吾が国の化学工業が現在非常に進歩して参ったことにつきまして、大変喜ばしいことでありまするが、しかし現代の日本の状態を見てみますと申し上ぐるまでも無く、まことに憂慮すべき非常時であります。それで各専門の方々は其の専門々々について色々御研究になっている事でありましょうが、吾われ物理化学につきましてみましても、海を距ててアメリカの状態をみますと、是は亦欧洲の大戦後非常な進歩をいたしております。先づアメリカのことはさておきまして満州国を距てて我が国と隣接しております所のソヴィエットの化学はどうであるか。これはまた最近非常なる進歩をしたのであります。ことに化学工業に関係した方面において長足の進歩をしているのであります。ロシヤの化学というものはもちろん、今までかなり立派な天才も出ておりますけれども、全体としてそう大したものではなかったのでありますにかかわらず、最近物理化学の専門の雑誌も出来まして、却々立派な研究が出ているのであります。でその研究は無論純学術的の研究でありますけれども、それを見ますとそこに何か意味があるように思います。それは主として将来の化学工業の確立のために国家が力を入れているということが私どもに明かに感ぜられるのであります。ロシヤの5ヶ年計画がかなり成功を収めていることは私どもよく聞かされていることでありますが、それは単に重工業とかあるいは軍需工業ばかりでなく、もう少し奥深い考えを以て国家として物理化学の発達に力を入れているということが想像せられるのであります。
そこで我が国におきまして、私どももじっとしているわけには行かないのであります。吾々も戦場に働く勇士同様の決心で働かなければならぬ。しかし働くにいたしましても、やはり兵糧もいれば立派な武器も持たしていただくということが必要である。この点に対してどうしたらいいかということを、私ども絶えず考えておりました所、昨年の秋に東京の藤井榮三郎さんが私に日本の物理化学研究のために使えと言って金3万円を提供されました。まことにありがたいことで、大いに感激いたしまして、早速帝国学士院長櫻井先生の所へ走って参りまして、いかが之をご使用さしていただききましょうかということをご相談申し上げまして、東京におきましては私どもの先輩に当たりまする片山先生にご相談申し上げ、京都では私の恩師の大幸先生、また京大総長の松井先生にお諮りをいたしまして、仮に日本物理化学研究会というものを作りまして、広く日本全国における物理化学者の御協力を願いました所、皆快くご承認下さいました。かくて本年の1月16日に初めて理事会を開き、本日第1回の役員会を開きまして、ここにおいて日本物理化学研究会の会則ができ上がったわけであります。そこでただ今、創立総会を開いていただくようになったのでございます。各方面から専門家は京阪地方はもちろん、東京からももちろん、仙台あるいは遠くは台湾、旅順あたりからもお集まり下さいまして、また斯く名士が多数ご来会下さいましたことは、いささか創立の任に当たりました私といたしまして、まことにありがたいことであります。
私ちょうどヨーロッパの大戦の後英国に渡りまして、初めて会いました化学者が私に申しますのに、お前はヨーロッパ戦争の時に何を研究しておったか、こう申されたのであります。私どもはヨーロッパの戦争の時は戦争のことも全く眼中に入れず、化学の純理的の研究をやっておりました。あちらでは実際化学者が一生懸命になって、実際問題を考究されておったのであります。ちょうど最近にドイツの状態を聞きますと、ヨーロッパ戦争の時、あるいはそれ以上に、皆一生懸命に工場に大学に、十分なる連絡を取って必死になって研究をしておるということであります。私ども、日本の現在の状態を認識すればするほど、その必要を感ずるのであります。
それで日本物理化学研究会の使命というものは決して軽いものではないのであります。この点に関しまして第16師団長、第4師団長閣下にもお話申し上げましたら、非常に賛成下さいまして、また海軍の方にも艦政本部長上田中将閣下にも申しましたら、大変ご賛成下さいまして、陸海両軍両方面からも応援しようということで、私も大変心強い心持をしておるのであります。この学会は単に研究発表する学会でなくして、研究会自体が進んでこれからは仕事をやろうという決心でいるのでありますから、どうか皆さんの十分の直接間接、ご後援を願いたいと思うのであります。
はなはだ簡単でございますが、これを以て経過報告といたします。(拍手)