液体の化学夏の学校は、バックに既存の学会や研究会を持たない、すこぶる自由な学校です。
この学校は89年の夏に始まり、20人から多いときで50人余りの参加を得て、毎年開かれてきました。 ぼくは、当時工学部におられた田中秀樹さん(現岡山大学)などと連絡をとって、この夏の学校の開設を画策したわけですが、最初の時の案内状は、次のようなものでした。
「液体の化学・京都夏の学校」のおしらせどうも液体・溶液の化学には、「液体・溶液は難しい」とさえ言っておれば、何かやったような気になる、そんな安易な雰囲気がそこはかとなく流れているように思われます。 しかしそういう姿勢は学問の堕落と言わざるをえないし、また30年来の液体論・計算機の発展は、「難しい問題」と真正面からわれわれが取り組むことを可能にしつつあります。 この地点に立って、「何が可能になったのか?」、「いったい何が問題なのか?」をいっしょに考えてみたい。 また京都には液体・溶液を研究の対象とする研究室がけっこうあるものの、互いの交流はあまりはかばかしくありません。 お互いの仕事をよりよく理解し合う中で、学問的な意味でも、人間的な意味でも何か見えてくるのではないか。そういった気分から、この学校を企画してみました。 |
第1回の会場は、関西地区大学セミナーハウス。 講師には河合塾の大場さん(現名城大学)を招いて「近代的な液体論の基礎」ということで、話をしてもらいました(校長は平田さん)。 その後、立命館大学の関係者の尽力で、会場に立命館大学のセミナーハウスを使わせていただいていたこともありましたが、 ここ数年は再び関西地区大学セミナーハウスを会場に開かれています(京都という文字は、うやむやの内になくなりました)。
最初企画に当った者として、もう少しこの「夏の学校」に寄せる思いを補わしていただくと、 「液体・溶液の化学はこれでいいのか?」という気持ちがあります。 一見、液体・溶液の化学は盛んなように見えます。 しかし、さまざまな新しいテクノロジーの実験場、目新しい理論の演習場として盛んなものの、液体・溶液それ自身の理解にどれほど近づいたのか、疑問に思うことも少なくありません。 「液体のなぞを解き明かす」ために行われた、一見華やかな研究が、結局従来のなぞを明らかにするどころか、なぞを増やすだけにとどまることのなんと多いことか・・・。 そしてさらに、そうした華やかなお話が、なんと速やかに忘れられていくことか・・・。
こうなってしまう最大の原因は、「なぞを解き明かす」とはどういうことか、あるいは、「液体・溶液を理解する」とはどういうことか、がつきつめて考えられていないことにあると、ぼくは考えています。 今日ぼくたちは暗黙のうちに、構造化学に基づく理解のあり方を自明の前提として受け入れているように思います。 構造化学は、原子(核)の配置を決定することが、そのものを理解することであるという立場を取る分野です。 しかし液体や溶液では、その構造というものが大きく揺らぎ、そのゆらぎが液体や溶液を特徴づけています。 ぼくたちは既製の構造化学的なスタイルからもっと自由に、そして根本的なところから歩き出さないといけません。
というわけで、ぼくは、「液体・溶液それ自身の理解」という“根源的な問いかけ”から目を逸らさないスタイルを大切にしたいと、つねづね考えています。 当然、それは「液体・溶液それ自身の理解とは何か?」ということから目を逸らさないことでもあります。 液体の化学というのは、そうした「理解」のスタンスが極めて重要な分野です。 おそらく一人ひとり、あるいは、理学、工学、農学といった大枠も含めた、学問分野ごとに、さまざまな「理解」の仕方があるでしょう。 そうした一人ひとりの個性、さまざまな分野の交流の場として、この「夏の学校」があったらと思うのです。 若い人(分野)には若い人(分野)の新鮮な感性が、老いた者(分野)には老いた者(分野)の醒めた眼差しがあるでしょう。 ですから、この夏の学校は、いわゆる「若手の夏の学校」に甘んじたくない、甘んじて欲しくないのです。 自分の頭で考え、自分の足で歩いて、重要な分野を切り開いていく。 そうした自立した液体の化学を志す人たちの広場として、この学校が発展していくことを願っています。